『家具の音楽に潜む誤解』の発言録 ~ エリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ Vol.3より
エリック・サティ エキセントリック・ピアノ&トーク・ライブ
-新たに発掘された資料が描く等身大のサティ像、あるいはもう一つのサティ論-
Vol.3『「家具の音楽」に潜む誤解』の発言録
発言者:尾島由郎、柴野さつき
2014年12月13日 カフェ・ブールマン(成城学園前)
—(柴野:『ヴェクサシオン』を演奏)
尾島:ようこそ。今晩は中央線が止まった影響がありまして遅れてこられるお客様を待つために、急遽一番最初に「ヴェクサシオン」という曲を持ってきました。これは1分程度の短い曲を840回繰り返すという無茶な指定があるサティの曲なんですけど、今日は何回くらい演奏しましたか?
柴野:今日は4回です。
尾島:あれで4回? ガヤガヤしている中で柴野さんが弾き始めた「ヴェクサシオン」。あれで4回だったらその200倍以上やるという、全部弾き終わるのに半日以上かかっちゃう。まさにギネス級だね。もっともサティには「タンゴ」という、永久に繰り返せという指定が楽譜に書かれているギネス的には禁じ手の長い曲がありましたね。
さて、このカフェ・ブールマンでコンサートというかレクチャーというか変なことをやらしてもらっているわけですが、今日は3回目です。
最初に前回来ていただいた方へ、二人からのお詫びというか・・・、前回ちょっと時間が押しまして終電を気にされている方がたくさんいらっしゃったんではと思いましたので。
前回は「スポーツと気晴らしの真実」という大ネタをやったんですけど、シャルル・マルタンが描いた画には実は原画があって、サティは一般的に知られている発表された画じゃなくて、その原画を見て曲を作ったということがわかって・・・、それを見るとちょっと今までわからなかったことが見えてくるということを、急ぎ足で説明したところ、時間が超過しまして、ご迷惑をおかけしたと思うんです。
それで今日は私、ちょっと早口なんですけども(笑)、ペース配分をバッチリと考えてレジメも作ってまいりましたので、大体10時位には終わりたいと考えております。
ファーストセットでは「家具の音楽」というサティの有名な作品ですが、それにあらかじめ仕込まれていたというか、私たち含めて皆さん誤解をしてしまっている部分を紐解いていこうかと思っています。音楽はCDとか聴いていただきながらやっていこうと思っています。セカンドセットの方はしっかりと生演奏で、柴野さんの「星たちの息子・全曲版」という新しいCDが出ましたのでそれを聴いていただこうと思っています。
といったわけで、今日のキーワード「家具の音楽」です。
エリック・サティが作った「家具の音楽」を通じて、80年代に日本で環境音楽のブームとか・・・、80年代って最近キーワードになっていたりして・・・、この間も30代くらいの若い人たちとご飯を食べたら、案の定、彼らの80年代のイメージは「バブルすごかったでしょう?」みたいな感じで、「みんな青山通りでタクシーひろうの一万円札でこうやってひろったんでしょう」といった「バブルへGO!!」的なイメージを強く持たれていました。確かにそういう面もあったんですが、それだけではなくいろいろとアートや音楽の方ではエポックなことがありまして、その辺とサティは密接に絡んでいるということを一度ご説明しておきたいと思いました。今日いらしている皆さんはリアルタイムで80年代を経験されている方が多いと思うんですが、そんな方はあの頃を思い起こしながらお付き合いいただきたいと思います。
まず話はずっとさかのぼるんですがサティが考案した「家具の音楽」について簡単にご紹介しておきます。ご存じのように、サティという人は1866年に生まれて1925年に亡くなった世紀末からベルエポックの一番おいしい時代に生きていたフランスの作曲家ですが、「家具の音楽」は彼の晩年である1920年の作品ということになっています。
例えばウィキペディアにはこう書かれています。
『「家具の音楽」は、フランスの作曲家であるエリック・サティが1920年に作曲した室内楽曲』・・・ピアノ曲ではないんですね。これ結構重要なポイントです・・・。そして『家具のように、そこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽、といったものを目指して書かれた曲である』。で、ここからが有名なんだけど、『そのコンセプトからアンビエント音楽やバックグラウンドミュージックの祖とされる曲でもあり、現代の多くのアーティストに影響を与えた』と。
ようするに「家具の音楽」はアンビエントミュージックや環境音楽、BGMの元となっているということ。ブライアン・イーノとか現代のアンビエントミュージックを作っている作曲家に大きな影響を与えたということが、ある種の定説になっています。
ところが、「意識的に聴かれることのない音楽」という明快なコンセプトに比べて、音楽の実体はベールに包まれていて、「家具の音楽」の本当の姿がなかなか見えてこない。
でもそれを解きほぐしていくと、サティが「家具の音楽」を作った本当の動機が見えてきて。これはさっきいった定説とはちょっと違ってくる、ということを、音楽と映像を交えてご紹介していきたいと思います。
現代において、「家具の音楽」がどうして有名かというと、70年代の中頃に環境音楽のプロトタイプが生まれ、それを最初に作ったといわれるブライアン・イーノが、「自分の作っている音楽はサティの家具の音楽の影響下にある」と伝えられました。
今日、開演前に流していたBGMは1975年に作られたブライアン・イーノの「Discreet Music」というアルバムなんですけど、その時はブライアン・イーノはまだ環境音楽=アンビエントミュージックという言葉は使ってはいなかった。オブスキュアという自分のレーベルからちょっと実験的な音楽を集めて発表していた。それをインタビューなどで自分はサティの家具の音楽に影響を受けていたと言っておったわけです。
これもウィキペディアからですが『ブライアン・イーノが提唱した音楽のジャンルまたは思想を表す言葉アンビエント音楽、アンビエントミュージックとも表記される』、と。
ブライアン・イーノという人はどういう人かというと、
—(現在のイーノの写真を見せる)
これは現在のイーノで非常に渋い感じの人ですが、実はアンビエントミュージックを作った1975年当時の今から40年近く前の彼はロックミュージシャンだったんです。
—((40年前のイーノの写真を見せる)
これ、なぜか裸ですね(笑)。
グラムロックの名残みたいな・・・・当時イーノはロキシー・ミュージックというロックのバンドにいたんですが、リーダーより人気が出ちゃって・・・かっこよかったんですね。
ロキシー・ミュージックのレコード・ジャケットを見ると、担当楽器はキーボードとかギターとかではなくて、テープとかSEとか書いてあって・・・・、何している人だろうと思ってました。
実はステージで踊りながらEMSシンセサイザーで効果音出してたりして。
その人が突然というか徐々に静かな音楽を作り始めていって。でも当時のロックの評論家たちはイーノがそういう実験的な音楽をやっていることにだんだん歯が立たなくなっていったんですよ。
唯一、阿木譲っていう人が編集長だったロックマガジンという雑誌だけが、イーノの最近の仕事を解説してくれて。僕はそれを貪るように読みました、高校生の頃。
そして、それを書いていたのが後で登場する作曲家の芦川聡さんという人です。
芦川聡さんは、最近のイーノがやっていることはロックというよりは、現代音楽とかもっとコンテンポラリーな範疇における仕事であると。そしてエリック・サティという作曲家が考案した家具の音楽というコンセプトとの関係性とかを解説してくれたわけです。
それでいよいよ環境音楽というのがブームになっていきます。
まず最初にブライアン・イーノのアンビエント代表作、これ名盤ですよね「Ambient 1: Music for Airports」。
発表されたのは1978年だから「Discreet Music」の3年後ですね。いよいよアンビエントという言葉が正式に表記されたアルバムがリリースされました。ちょっとこれ聴いてみましょう。
—(Brian Eno「Ambient 1: Music for Airports」から「1/1」をかける)
これは本当にニューヨークのラガーディア空港で使用されていた音楽だったようですが・・・、まさにアンビエント・ミュージックの原点、オリジネーターですね。
—(柴野:「1/1」のフレーズをピアノで弾く)
尾島:幾つかの音素材をループにして再生し、それぞれがずれていくのをフェーダー操作で音楽に編んでいく・・・、さっきの裸でロキシー・ミュージックでやっていたのと同じようなコンセプトで作っているわけですね。
次にこれも名盤です「Ambient 2: The Plateaux Of Mirror」。
—(Brian Eno & Harold Budd「Ambient 2: The Plateaux Of Mirror」から「First Light」をかける)
尾島:僕はこれを聞くと当時環境映像というのがブームだったのを思い出すんですけども、いろんなところで環境映像というのが流れたんですね、80年代は。そのバックによくこの曲が使われていたんです。
例えばデパートのエレベーターの中にモニターがあって滝が落ちていくのがスローモーション流れていたり、トイレに鏡の横にモニターがマウントしてあって、水のしぶきが降ってたりとか・・・、いっぱいあったんですよね、そういうのが。
これはハロルド・バッドというミュージシャンと、イーノのコラボレーションなんですが、さっきのエアポートもこの曲もそうなんですがピアノがとてもフューチャーされているんだね。
「アンビエント=ピアノ」みたいな図式がこの2枚で思いっきり出来上がって。そのどっか遠くにサティのピアノの曲が、ジムノペディとかが、どこかで共鳴しあっていた感じです。
さて次は80年代を語る上で避けて通れない西武文化についてです。
ここから日本の環境音楽シーンに話しを持って行こうと思っているんですけど、日本の場合、環境音楽とかサティとか80年代に流行していった背景の、そのかかせないものに西武文化の存在があるんですね。
その中心が、西武百貨店池袋本店にあった西武美術館です。
僕は浪人生の時に大塚の予備校に通っていまして、隣の池袋にある西武美術館によく行ったわけです。
いわゆるデパートの中の美術館ですが、すごいですよ
—(当時の西武美術館のフライヤーを見ながら)
三宅一生展はわかるにしてもカンディンスキー展、ジャスパー・ジョーンズ回顧展、とどめを刺すのがマルセル・デュシャン展。ロシア・アヴァンギャルド展もあったな。僕ね「芸術と革命」っていうこの展覧会がすごい好きだったんですよ。PASHUっていうDCブランドのデザイナーの細川伸さんが、この美術展用にアルメニアの農奴が着るみたいなジャケット作ったんですよね。
それが「アール・ヴィヴァン」で売られてね、バイトして買ったんですよ(笑)。
これはマッキントッシュの世界という展覧会、あれもあの椅子の模型とか売られていたりして・・・、で、その隣のチラシが・・・
柴野:ジャン=ジョエル・バルビエという、私の先生なんですけども。この西武美術館でバルビエがサティの連続コンサートをしたんです。
尾島:柴野さんは大学がすぐそばなんだよね。
柴野:卒業したばっかりだったと思うんですけど、その頃サティが流行り始めていて、西武美術館でマン・レイ展と一緒にやったんです。マン・レイの作品の前で演奏してそれはかっこいいと思いました。普通コンサートホールでしかコンサートってありえないと思っていたのに。
尾島:これ何年?
柴野:1978年です。
尾島:ミュージックエアポートが出た年だ。柴野さんはその後
柴野:この人につきたいと思って直接手紙書いてフランスに押しかけて行ったというわけです。
尾島:辻井喬さんのおかげで我々はこういう新しいものに触れられたんですね、20代の頃に。とても感謝しております。
それでこの辺に興味のある方は「セゾン文化は何を夢見た」というこういう本があるんですよ。
これすごい面白いです。インタビュー集なんです。小池一子さんや、芦野公昭さんや、小沼純一さんや、いろんな人が出てくるよね。西武に関わったクリエーターとかお店を作った人達のインタビュー集で面白い。
—(「セゾン文化は何を夢見た」を見ながら)
柴野:これ懐かしい。デパートのシャッターにモナリザが描かれていたよね。
尾島:西武って9階建てのデパートだったんだよね、
横に長いね。ここの部分が10階11階12階がぽこんと出来上がった。
10階がディスクポート、シティっていう喫茶店があったんだよね。
11階が西武ブックセンター、後にリブロポートに変わった。西武ブックセンターにはフィガロっていう喫茶店があって西麻布のフィガロの支店だよね。西麻布のフィガロでは、山本耀司と川久保玲がお茶しているっていう噂があって。かっこいいなって。そのフィガロが池袋にあるっていうんで足繁く通ったんですよね。
12階に西武美術館があった。こういう普通のデパートの屋上に増築されてて、屋上の反対側には遊園地とかがあって・・・、この12階西武美術館で錚々たる現代美術の展覧会をやってくれて、さらにそこでサティのコンサートをやるという刺激的な空間でした。
実はこの本の中にアール・ヴィヴァンを作られた芦野公昭さんの一節があるのでちょっと柴野さんに音読をしてもらいましょう。
柴野:西武美術館のある12階には百貨店の店内放送が流れてなかった。アール・ヴィヴァンでは音楽コーナが絶えず音を流していた。81年頃はブライアン・イーノのアンビエントシリーズが流れていた。閉店の音楽はエリック・サティのジムノペディだった。この曲がどこかから流れてくると今でも私はああ閉店だと条件反射に思う。
尾島:イーノのエアポートと、サティのジムノペディが並列に並んでいた。ワクワクするような環境でありました。
それからアール・ヴィヴァンというのが何だったのかというとこれがアール・ヴィヴァンが出していた本なんですけどミュージアムショップだよね、言ってしまえば。
なんだけどもとても尖っていたという、現ナディッフだよね。
この時はニューアート西武と言ってアール・ヴィヴァンというところだったんだけど、その後ニューアートディフュージョン、ナディッフになった。
ここは美術だけではなく音楽の発信地にもなっていて、レコードコーナーがあったんだよね。
そこにさっきイーノを日本に紹介したという芦川聡さんが店員さんだったんだよね。そこで僕らいろんな音楽を聴かせてもらって、当時YouTubeなんかあるわけないからね。そこではどんどんレコードかけてくれて勉強させてもらった。とても尊敬している人なんですけど残念なことに早くお亡くなりまして。
さっきのハロルド・バッドの「First Light」という綺麗な曲、あのハロルド・バッドを日本に呼んでコンサートを開いたのが芦川さんの最後の仕事で、1983年六本木アクシスギャラリー。
そして環境音楽入悶の本、「ニュウモン」の「モン」が、「悶絶」の「悶」なんですが三浦俊彦さんという美学、分析哲学の先生の本をご紹介しましょう。
この本の中で三浦先生は、あまたある環境音楽を徹底的に分類することをやっておられる。
環境音楽全部同じだろうと普通の音楽だけを聴いている人は思うんだけども、こういうものこそ微細な差異で細かく分類できる。
僕や柴野さんの音楽もこの中でしっかり分類されていてとても面白い本なんです。この本の中でもアール・ヴィヴァンのくだりがあるので・・・
柴野:「一番良かったのは西武美術館の時代だ。あの頃は西武デパートの最上階に美術館があって階全体が寝入りばなの夢みたいに薄暗くて、美術館の入り口から出口までコの字型にアールヴィヴァンが取り込んでいて出口の脇の穴ぐらみたいな窪みがレコード売り場でそこはかとないいかがわしさが漂っていて常時テリーライリーや尾島由郎なんかのドローン音楽がぼんやり展覧会会場の中にまで漂ってきて幻想的な雰囲気を醸し出していたものだ」
尾島:こうして日本では環境音楽というのがちょっとしたブームになっていく、それを象徴しているのが1983年無印良品青山店の音楽です。聴いてください。
—(「MUJI BGM 1980-2000」から細野晴臣「TALKING -BGM ver.」をかける)
開店当初、僕は自転車屋かと思っていたんですけど。
無印良品とは、80年に西友ストアのプライベートブランドとして誕生したんですが、最初あんまりパッとしなかったんですね。
83年になってこの路面店を作ったことでコンセプトを明確にしてきました。この内装は杉本貴志さんで、アール・ヴィヴァンもそうだったんですって。空間デザイナー文化(笑)。
でそのフラッグシップである青山店のBGMというか環境音楽を、YMO散開した直後の細野晴臣さんが手がけました。
次はちょっと手前味噌なんですが、1985年青山にオープンしたスパイラルの環境音楽。これは私のデビュー作です。
—(尾島由郎「Une Collection Des Chainons I」から「Fliusをかける)
スパイラルは槇文彦先生が設計した、日本のポスト・モダン建築の代表作といえる建物で、中に入るといろんな目的のスペースが全部オープンにつながっているユニークな空間構成の建物です。未だに中全然いじってなくて30年以上過ぎているという、ここで私まだ20代の頃に環境音楽を作りました。
今日いらしてる音楽家の宇都宮理人さんにはクリスマスの時にお手伝いしてもらって一緒にクリスマスアンビエントを作った。みんなで当時の気分でやったんですね。
次に、環境音楽っていうのは当時結構ポピュラーになっていたよという一例を映画の中から紹介しようかな。
では映画「ナインハーフ」です。「ナインハーフ」は「フラッシュダンス」のエイドリアン・ライン監督の作品です。リドリー・スコットと並ぶCM出身の監督なので影の使い方がすごく綺麗なんですが、内容はめちゃめちゃポンコツな映画で、マンハッタンを舞台に9週間半にわたる倒錯した愛を描く、当時話題になったスタイリッシュなポンコツ映画。実はここでアンビエントかかります。
最初に彼女がねミッキーロークの彼の家に遊びに行くシーン。マッキントッシュの椅子があるでしょ?
で、部屋のBGMにイーノのエアポートかかっている、そして環境ビデオっぽいのも映っていますね。床に直置きしたモニターにカラーバー映しているだけで環境ビデオとか言っちゃって、当時かっこよかったんだよね(笑)。
なんでこれをご紹介したかというと、そのくらい環境音楽って結構生活や風俗の中に溶け込んでいて、環境音楽をかけてスタイリッシュに暮らしたいないあという、いかにも80年的な潮流があったわけです。
さて、ようやくここからがエリック・サティの「家具の音楽」のお話しです。
もう一度おさらいしておきましょう、「家具の音楽」とは、
『「家具の音楽」は、フランスの作曲家であるエリック・サティが1920年に作曲した室内楽曲』・・・ピアノ曲ではないんですね。これ結構重要なポイントです・・・。そして『家具のように、そこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽、といったものを目指して書かれた曲である』。で、ここからが有名なんだけど、『そのコンセプトからアンビエント音楽やバックグラウンドミュージックの祖とされる曲でもあり、現代の多くのアーティストに影響を与えた』
つまり「家具の音楽」の誕生によって環境音楽が生まれたといわれているわけです。
では「家具の音楽」ってどんな音楽なんだ?
実は当時、実際にはあまり聴かれていなかったんだみんな。
コンセプトはとても有名で何度も読み聞きしていたんだけど、実際の音楽はほとんど聴いたことがなかった。
なのでみんなコンセプトから勝手にイメージして、エアポートみたいな感じなのかな、ジムノペディ作っている人だからジムノペディっぽいのかな、みたいに音楽聞かずにコンセプトでお腹いっぱいになっていた。
「家具の音楽」が収録されたレコードが出たのが1980年なんですよ。楽譜は出ていたんですがなかなか手に入れずらかった。それでこのレコードが出て「家具の音楽」をやっと聞くことができるようになりました。
それでは聴いてみましょう。
—(「家具の音楽」から「県知事私室の壁紙」をかける)
これ始めて聴いた時、とても違和感を感じたんですよ。さっきのミッキー・ロークの部屋にこれがかかっていたらすべてぶち壊しになるぞって。
これなんかの間違いだろうと。1曲目はちょっとイメージと違うけれど、「家具の音楽」あと2曲あるから。で、2曲目に期待して・・・、タイトルがまたすごい。
—(「家具の音楽」から「錬鉄の綴れ織り」をかける)
オーケストラだからちょっとうるさいけれど、ピアノだったらアンビエントって思えるかなと思って、
—(ピアノで「錬鉄の綴れ織り」を弾く)
そして3曲目
—(「家具の音楽」から「音のタイル張り舗道」をかける)
なんか聞かないほうがよかったな。あまりアンビエントな音楽とは言えない。
柴野:先ほどお話ししたアール・ヴィヴァンの芦川さんと親しくしていたんですけど、ちょうど私がフランスから帰って来た時に彼が環境音楽の会社サウンドプロセスデザインというのを立ち上げたばかりでして、第一弾として芦川聡彼自身の音楽家としてのアルバムを作って、第二弾で環境音楽の作曲家吉村弘さんのアルバム、第三弾でサティで私のアルバムを作らないかというお話しをいただいたんです。
その当時サティというのは環境音楽の先駆けとなった家具の音楽のコンセプトを考えた作曲家ということでそいう位置付けでサウンドプロセスデザインにはぴったりな作曲家だったわけですね。
ではどんな曲で作ろうかというと、でも環境音楽の会社だから「家具の音楽」はピアノ曲ではないんだけど入れたいということで、芦川さんと打ち合わせしている中で、芦川さんがポツンと「でも家具の音楽ってはっきり言って聞きづらい曲だよね」って。環境音楽っぽくないよねって、二人の話しの中で出たんですけど。
尾島:それね、僕もやっぱりそうで「家具の音楽」ってコンセプトは面白いけど、実際の音楽はなんか違うよねって思ったんだよね。僕は吉村弘さんとそんな話ししました。彼の広尾の家でレコード聴かせてもらいながらね。
だから「家具の音楽」は聴かなかったことにしようと(笑)。ジムノペディ、グノシェンヌ、あの辺の曲を想起しながら、「家具の音楽」はコンセプトだけにしておく方がいいと長いこと思ってました。
しかし最近になって「家具の音楽」に二つの残りの曲があるというのを知ってから、また事態が動き出したんだよね。
残りの2曲の楽譜が出たのが1999年くらいかな。
その曲が収録されたCDをようやく入手しましたのでお聴かせいたします。
「ビストロにて」「サロン」というタイトルの2曲です。
—(「家具の音楽」から「ビストロにて」と「サロン」をかける)
この2曲、デパートの屋上でかかっていそうな曲だよね。
西友ストアの音楽だよね。僕らはこれを聞いて思考停止になったんだよね。
これはちゃんと掘り下げなきゃダメだと。
この2曲を漫然と、「4番目の家具の音楽」、「5番目の家具の音楽」として取り入れていいんだろうかと、文献を当たって調べたところ、まず元からある3つの「家具の音楽」の順番、つまり、
1.県知事私室の壁紙
2.錬鉄の綴れ織り
3.音のタイル張り舗道
はどの本を見てもこの並びになっていて、1曲目はいつも「県知事の私室の壁紙」から始まっているけれど、実は作曲された順番はこうだったんですね。
1.錬鉄の綴れ織り
2.音のタイル張り舗道
3.県知事私室の壁紙
そして、件の「ビストロにて」と「サロン」を加えると、
1.錬鉄の綴れ織り
2.音のタイル張り舗道
3.ビストロにて
4.サロン
5.県知事私室の壁紙
さらに5曲には出自の違いがあって、それを明確にしながら分類すると、
■交響的ドラマ「ソクラテス」のための習作 1917-1918
・錬鉄の綴れ織り
・音のタイル張り舗道
■マックス・ジャコブの戯曲ための幕間音楽 1920
・ビストロにて
・サロン
■ユージン・メイヤー夫人のための委嘱音楽 1923
・県知事私室の壁紙
という3つのレイヤーになっていたわけです。
こう分類した上でもう一度各曲を聴き直してみると、
「錬鉄の綴れ織り」と「音のタイル張り舗道」は、「家具の音楽」の一番最初のプロトタイプで、「家具の音楽」を作ろうとして作ったというよりは、当時サティがメインで作っていた大作「ソクラテス」のエチュードだった。
これを「ソクラテス」でどういう風に使おうとしていたのかの説明は今日は省略しますね。「ソクラテス」を作り始めたあたり頃から、サティは「家具の音楽が必要だ」と仲間に吹聴して回るんだよね。いろいろな名言が残ってますけど。
柴野:「周囲を取りまく雑多な音を考慮した音楽を作るべきだ」とか、「いかなる結婚式にも家具の音楽なしでは成り立たない」とか、「眠るときに家具の音楽をかけなければならない」とか、「家具の音楽がない家には入ってはならない」とか(笑)
尾島:彼を崇拝していた数少ない若い作曲家達も、「家具の音楽」には賛同できないなって感じだったんだけど、ひとりだけダリウス・ミヨーという作曲家がそれはおもしろいと「家具の音楽」というのはこれから必要になるだろうと。
ちょうどその頃マックス・ジャコブ、詩人で画家の人なんですけど彼が画廊でイベントをやったんだよね。
柴野:そうです。画廊でやったお芝居の幕間にロビーで「家具の音楽」を披露しようとミヨーが持ちかけてくれたんです。その「家具の音楽」というのが二つ目のレイヤーに属す「ビストロ」と「サロン」。
尾島:さっきの西友ストアみたいな音楽。これがどういう風に画廊のイベントで使われていたかというと、
柴野:お芝居の休憩時間にロビーの四隅にいろんな楽器を置いて空間的な音楽として流そうと。
尾島:この多分に世俗的なメロディが、いろんな方向から聞こえてくるというシチュエーションを作ったんだね。
そこであらかじめサティは、「今日はロビーで家具の音楽を披露します」っていうんでプログラムの中に今日のロビーの音楽ってこういうのなんだよというのをみんなに配っていたんだ。
それによると、これはロビーにある椅子とかと変わらない音楽なので気にするなと、普段通りにぺちゃぺちゃしゃべててねと。
なおかつサティとミヨーはそのコーナーで「家具の音楽注文受付ます」というのをやった。
柴野:ところが実際に演奏が流れるとお客さんたちが話すのを中断して音楽を聴き始めた。
サティは怒り出してして「いつも通りにおしゃべりを続けるんだ。聴くんじゃない!」と言って廻ったというのがかの有名なエピソードであります。
尾島:これはとても有名なエピソードなんだけど、この時演奏された「ビストロにて」と「サロン」という曲が、実際にはどんな曲だったかは今まで知られていませんでした。
なので、なんとなく「県知事私室の壁紙」や「錬鉄の綴れ織り」のような曲が演奏されたのかなぁという、事実誤認のままになっていました。
そして、最後の「県知事私室の壁紙」は「家具の音楽」の最終形。1923年ユージン・メイヤー、この人はワシントンポストの二代目社長のユージン・メイヤーの奥さんなのかな?・・・その委嘱で作ったものでした。
こうして聴いてみると、レイヤーが進むにつれて、サティの等身大的音楽だった「家具の音楽」がどんどん概念としての「家具の音楽」に変化していったことがわかります。
交響的ドラマ「ソクラテス」のための習作として作れた、「錬鉄の綴れ織り」と「音のタイル張り舗道」は「ヴェクサシオン」にも近いサティらしい曲だけれど、「ビストロにて」と「サロン」は、コンセプトが重要な部分で実際の音の内容はどうでもいいと。
柴野:聞こえるんだけど真剣に聞かれることのない音楽ということを目的として作られた音楽ですね。
「ビストロにて」と「サロン」で使われているメロディ、実は他の作曲家の引用でして、ひとりがアンブロワーズ・トマという作曲家、もうひとりはあの有名なサンサーンスの曲の中から引用しています。
まずトマという作曲家はサティにとってどんな人だったかというと、サティがコンセルバトワールに通っていた時に校長先生だった人で、サティを「取るに足らない生徒」と言った人であったと。
サンサーンスの方は、実はサティは芸術アカデミーの会員に3回立候補しています。芸術アカデミーとはどういうところかというと、日本人では丹下健三さんとか、小澤征爾さんなんかがそこの会員になっているくらい芸術家としてとても名誉のある場所なんですけどここに3回立候補した。
この行為は彼特有の奇行と言われていますが、実は彼は意外と権力志向が強かったのかな、なんかちゃんとした他の理由がありそうに最近私は思うんですけど・・・、話は逸れましたがサンサーンスは立候補したサティを落とした人でした。
自分の恨みつらみの二人の作曲家の曲からメロディを引用して作ったのが「ビストロにて」と「サロン」です。
尾島:要するにメロディなんでもいいということの裏返しで、さらにはとても当時の大衆的な音楽だったんだよね。そういうものほどこのコンセプトの中で使いたかったんだろうね。
結局音楽はどうでもよくて、音楽斜め聴き状態というのがコンセプトなんだから、あえてリスペクトしない音素材に使ったわけだね。
次第に「家具の音楽」が整理されてきました。それによって、サティが「家具の音楽」に仕組んだ真の目的はなんだったんだろうということにようやくフォーカスすることができます。
これがさっきマックス・ジャコブの公演時にプログラムの中に挟んでいた要望書ですが、
柴野:『音楽に気を取られずにあたかも音楽などが存在しないかのように休憩時を過ごしていただきたいと思います。この音楽は個人的な会話とか飾り絵とか皆様の中でかけておられる方もいればかけておられない方もいるロビーの一室と同じ程度の役割しか果たしていないのですから』
尾島:すでにパリの市井には音楽が溢れていたんだよね。サロンとか、
柴野:サティが生活費のために弾いていたカフェのピアノとか、実は誰も聴いていないでおしゃべりしていたりとかそういう状態だったと思うんですよね。
尾島:ようするにBGMが溢れ始めていた。みんな音楽を漫然と聴くことが日常になっていた。
それまでは音楽聴くってことはとてもお金がかかるし、地位がある人でなければ音楽を聴くことできなかったわけじゃない。みんなが音楽を聴けるようになり始めて、
柴野:最初はみんな大事に音楽を聴いたんだろうけど、
尾島:すぐに傾聴するようになった。音楽がどんどんBGM化されてしまっていることをサティは、
柴野:危惧してたんだろうね。それだったら逆にちゃんと聴かなくてもいい音楽を作ってあげましょうと。
尾島:そんなに何かしながら音楽が聴きたいんだったら、そんなにいつも音楽をかけていたいんだったら、こういう程度の音楽でちょうどいいだろうと思い、「ビストロにて」や「サロン」みたいな曲を作ったんじゃないかな。
たぶん本当の理由は、自分の作った音楽には耳を傾けてほしい、対峙してほしいって思っていたのだろうね。
柴野:ところが1980年代のサティブームの頃には、ジムノペディやグノシェンヌはBGMになっちゃったんですよね。
尾島:未だにそういうところがあるよね。「「家具の音楽」っていうBGMの元祖を作っていた人でしょ。 だからジムノペディってBGM的なんでしょ」って思われちゃって。悲しい皮肉な結果になっちゃったんだけど。
本当は自分の音楽がBGM化するのを守るために「家具の音楽」作った。「家具の音楽」はアンチテーゼだったんだと。
柴野:なんとなく我々が思っていたことが、「ビストロにて」と「サロン」の出現ではっきり見えてきましたね。